1905年の「治癒せる強迫観念狂の一例」の段階では、森田が神経症の治療に暗示および催眠を用いていました。森田の学位論文「神経質の本態及療法」が「呉先生記念論文集」に発表されたのは、1923年ですので、森田療法はこの間に成立したものです。
森田の学位論文が提出された折に審査が紛糾したエピソードは、布留武郎氏が次のように述べています。
「これが僕の学位論文です、といって(森田先生に)わたされた印刷物はB5番の薄い冊子であった。・・・まことに平易な文章、学位論文といえば難解なものと予想していた私には、これが第一の驚異であった。第二の驚異は学説や禅語の引用に対して、その出所が明記されていないことであった。学術論文には内外の文献がぎっしりとならんでいるのが通例で、その本来の意味は、諸家の学説をふまえているか否か、その引用に誤りないか否かを示すとともに、後学者のための道案内をするところにあるのだが、実際には単なる権威づけや学識を誇示するためのものが多いのである。ともあれ、この論文は形式においても内容においてもアカデミックな教授会にとって異質の破天荒のものであったと思われる。案の定、先生の論文は教授会で難航したようである。きくところによると、主任審査員の呉教授が色をなして、『このような立派な研究が認められないのなら、私の学位を返上する』とまで言われたので、形成は一転し、教授会を通過したということであった。」(布留武郎「森田先生の言語観;形外先生言行録、1975」より)
森田の主著である「神経質の本態と療法」(1928)は、このユニークな学位論文に加筆し、一般向けの単行本としたものです。
単行本の「神経質の本態と療法」にある「私の神経質療法に成功するまで」の章では、
森田が試みた催眠術、作業療法、生活正規法、臥褥療法、説得療法と様々な精神療法と様々な精神療法の遍歴が書かれています。そして、1919年3月に知人の神経衰弱の患者を自宅に泊めて、一ヶ月で健康を回復したことから、患者を家庭的に治療するようになって効果をあげるようになって述べています。これが発展したものが「神経質の特殊療法」として森田がまとめあげたいわゆる入院森田療法です。
しかし、森田の著作によると、森田自身は、同じ療法を、外来でも、手紙による通信でも行っています。