森田正馬

森田正馬(もりたしょうま)は、1874年、高知県の香美郡富家村で生まれました。
上京して東京帝国大学医科大学を卒業し、呉秀三が率いる精神科(今の東大精神科)の助手となり、また、東京府立巣鴨病院(都立松沢病院)に勤務しました。さらに、慈恵医専で精神病学の講義をし、1925年には慈恵医大の教授に就任しました。

森田の師である呉はドイツでクレペリンに学び、ドイツ精神医学を日本に導入した人です。
しかし、森田の入局当時、精神科医を志望するものは、珍しい存在でした。
しかも、森田がその後入学した大学院で選んだテーマはその当時の精神科医としては異例の「精神療法」でした。
彼はまた、文科大学の講義で心理学や催眠術の講義も受けています。
そして、入局の年の夏には、郷里の土佐へ「犬神憑き」の調査旅行に行き、
36例の憑依病者を診察しています。

このように、森田のたずさわった領域の一つに祈祷性精神病や土佐の犬神の研究、あとで述べる「神経質の本態と療法」と同年に出版された「迷信と妄想」に代表される文化精神医学の領域があります。
この本では、妄想と迷信の定義、妄想の発生条件、妄想構成の過程、新興宗教論、迷信発生の内因、外因、神憑、土佐の犬神、姓名判断、天源術・淘宮術、禁厭、読心術、さらに女学生と迷信まで、森田自身が実際に見聞した多数の例を扱っています。予断ですが、荒俣宏の「帝都物語」に登場する森田正馬は、作者が森田のこの面から創作したものと思われます。

森田がもう一つ興味を示した領域が、催眠です。
「治癒せる強迫観念狂の一例」(1905の論文)では催眠療法、暗示療法について詳しく述べています。そして、強迫観念の治療に暗示および催眠を用いています。
また、主著である「神経質の本態と療法」において、「私の神経質療法に成功するまで」の章では、「催眠術は、大学卒業後はじめたのであるが、だれにも習わずにひとりで参考書を読んで、自己流に工夫した」
「私たちの教室には、催眠術を研究するものは私一人であって、だれもこんなことに興味を持つ人はなかった。ただ私は、自分で研究に苦労したから、その後、後進の人々に教えるには上手であって、私に習う人は容易に上達することができた」と述べています。
神経症の根治療法としては催眠療法は用いなくなったものの、慈恵医大の精神科では、森田の弟子であった竹山恒寿が催眠療法の研究を続け、「催眠術並びに暗示療法」(1950)を著し、また1956年には催眠研究会(現在の日本催眠医学心理学会)を設立しました。